KATOU ICHIKOU

■ダイアリー/エッセイ/小説などのオリジナルコンテンツを掲載

チュー太郎

 歩いていると、道路の端っこでチュー太郎が死んでいた。チュー太郎は車に轢かれたようだった。頭も胴もない、なんだかわけのわからない黒いぐちゃぐちゃの集まりから、小枝みたいな小さい手足とミミズみたいな長細いシッポが、死ぬにはいささか正しすぎる角度で五方向に伸びていた。分度器と定規を使って書いた星の形みたいに正しい形だった。ウィトルウィウス的人体図みたいに建築的だったし、海賊旗のように脅迫的でもあった。つまりは、シンボルだった。チュー太郎は死んで、シンボルになった。シンボルになりたくてなったわけじゃなかった。チュー太郎は脳ミソがちょびっとしかなかったから、死にたいも生きたいもなかったし、シンボルなんて匂いもしなければヨダレも出なかった。たまたま正しい形で死んだから、シンボルになってしまっただけだった。チュー太郎のシンボルが何を象徴しているのかは、僕も脳ミソがちょびっとしかなかったからわからなかった。僕はチュー太郎のシンボルを大股で跨いで、昨日とも一昨日とも同じ時間の電車に乗った。その日から三日間は天気も良く、チュー太郎のシンボルは三日間そこに示され続けて、僕は三日間大股で跨いで、明日とも明後日とも同じ時間の電車に乗った。三日目には干からびて、ほとんど道路と見分けがつかないくらいになっていた。四日目にはなくなっていたので、本当に道路になってしまったのかもしれなかった。四日目の午後から雨が降り始めて、三日間降り続けて、四日目に雨は上がったけれど、その頃にはチュー太郎のシンボルがどこにあったのかわからなくなってしまった。これが本当にあったことなのかさえもわからなくなってしまうのには、もう一日あれば十分だろう。

を待ちながら

 アンネの日記が創作ではないと知ったのは、文庫本のあとがきまでいった時だったような気がします。僕の記憶の中ではなぜか、アンネの日記赤毛のアンがだぶっています。
 それらを読んだのはもう昔の話で、正直内容もよく覚えていません。今もう一度比べて読んだら全然違うじゃんて思うのかもしれないというか、間違いなく全然違うんでしょう。何がって、現実に起こったことなのか創作されたものなのかが、決定的に違うのでしょう。でも、それって本当に重要なことなのかなぁ。
 
 
 
 こまばアゴラ劇場で「を待ちながら」という舞台を見ました。受付でもらった紙には、ベケットという名前があります。ウィキペディアで調べると、「ゴトーを待ちながら」という戯曲を書いた人らしいですけど、残念ながら僕は知りません。
 
  だからベケットさんはとりあえず置いといて、僕にとっての1番の問題は、なぜアンネなのか、なのです。
 
 
 舞台ではちょこっと、アンネの日記が抜粋されて読まれるシーンがあります。僕の感覚ではいささか唐突に、そこだけ浮いています。アンネのシーンさえなければ、僕は何も考えることなく、何となく芸術っぽいものに触れた気になって満足したことでしょう。
 
  劇の内容は説明できません。ドタバタ喜劇のようでもありますし、詩的なもののようでもあります。生と死が全面的に問題になっているように見えます。でもそれよりも僕には「演劇って嘘なんだよ」と、コッソリ教えられているような気がします。劇中の所々で現実を混ぜ込んでいたり、現実を進入させていることで、僕ははっと、現実に引き戻されるのです。
  それとは逆に、所々ではあまりにわかりやすい嘘もつかれます。僕は「あっ、これ嘘だ」と気づきます。
  現実なのか嘘なのかわからないものも出てきます。障害を持った彼がそうです。彼はきっと、現実であり、嘘です。
 
  現実を進入させる1つは、劇場のそばを走る井の頭線の電車の音です。ドタバタ喜劇よろしく、みんな舞台に出たり入ったりします。その通路の1つが舞台裏への防音?扉です。
  僕は演劇を見慣れていないので想像ですが、(と言うかこのエントリー全てがただの想像だったりしますが)普段の演劇では開けられることがないのじゃないかと思われるその扉がバタバタとデカい音をたててしょっちゅう開かれ、出たり入ったりします。開かれている間には、劇場の外の、井の頭線の電車の音が劇場内でも聞こえます。その時僕は、外の現実に気づき、今が嘘の中だと気づかされます。
 
  僕は正直言いますと、これに少しガッカリしたのです。嘘だと気づかされることは興味深いコンセプトの1つだと思いますが、この方法はちょっと面白くないと思ったのです。
 
ガッカリを引きずって、舞台が終わって帰る時、僕らはこの防音?扉から退出しました。
 
  そうしたら、この扉の奥にスピーカーがありました。このスピーカーはもしかすると、電車の音を流していたのではないでしょうか。僕のガッカリはビックリになりました。だって「演劇って嘘なんだよ」って伝える「現実の電車の音」ですら「嘘」だったのかもしれないのですから。入場は客席の後ろからだったのに、退出は舞台からというのも、(もしかするとこの劇場はいつもそうなのかもしれませんが)これを見せるためだったのではないかとさえ思います。
   現実だと思っていた、思っていることも嘘かもしれないということ。ポストトゥルース
 
 なんだかわけがわからなくなって、一週間たって、今僕はなんだか、アンネは死んでないような気がしてきています。
 
 これって我ながらすごい意味わかんない感想だと思いますけど、それはすごくいい気分です。演劇は嘘かもしれないけれど、実は現実と嘘との曖昧なところにあって、その境界を惑わすことができます。劇中で「アンネは病気で死んだ」みたいなセリフが、正確には覚えてないですけど、ありました。なぜわざわざそんなことを言ったのかって、そりゃあ「死んだ」って現実を演劇が「嘘」にするためだと僕は今になって思います。
   でももしこの「を待ちながら」っていう演劇が、アンネを死んでないということにするための装置だとしたら、そんなに素敵なものってないんじゃないかって、僕は思います。
 
 
「を待ちながら」
作:山下澄人 演出:飴屋法水 プロデュース:佐々木敦
出演:山下澄人 飴屋法水 荻田忠利 佐久間麻由 くるみ
 
 

月がでかいから、どっか遠くでサイレンが鳴っている。

 
 月がでかい。どっか遠くでサイレンが鳴っている。
 月がでかいから、どっか遠くでサイレンが鳴っている。月がでかい夜はみんな何かやらかすから、ウーウーウーウーとサイレンが、お前やばいぞと警告する。
 ウーウーウーウーと鳴り響くサイレンが、お前やばいぞと警告しながら走っている。みんなに言っているわけじゃない。やばい人に言っている。
 
 
 
 電信柱に「鳥をさがしています」という張り紙があった。
 
鳥をさがしています。
2017年8月31日、不注意で文鳥を逃がしてしまいました。
メスです。
くちばしが少し白くなっているところがあります。
白羽まじりの頭です。
背中右に一枚白い羽があります。
サイズはスズメ大です。
名前はごましおです。
人の声に反応する、手ノリです。
逃がしてしまった場所は×××二丁目です。
見つけてくださった方にはお礼させていただきますので、
最寄りの交番か×××−××××-××××まで、
もしくはbuncho_sos@××××××.co.jpまでご連絡ください。
お願いします。
 
 
 
 僕は張り紙の前で立ち止まって全部読んだ。こんな張り紙をじっくり全部読むのは散歩中のじいさんとか、よほど暇なやつだけで、僕は今よほど暇なやつだった。これが新築分譲の張り紙でも同じように読んだかもしれない。これが「新築分譲」じゃなく「鳥をさがしています」だったのはたまたまのことで、「鳥をさがしています」だから読んだのではない。たまたま読んだら「鳥をさがしています」だっただけのことだ。読んだからって鳥を探す気もないし、そもそも見つかるわけがない。僕は鳥に詳しくないから、文鳥を見て「あ、文鳥だ」とは思わない。「あ、鳥だ」と思うだけだ。もし奇跡的に「文鳥だ」と思って手を伸ばしたとしても、鳥なんて捕まえられるはずもない。
鳥は見つからない。鳥は捕まらない。鳥は戻ってこない。
 
 張り紙はあっちこっちの電信柱に貼ってあった。それを見つけるたびに「見つかりっこないよ。」とか「見つかるわけないって。」「無理だって。」なんて声に出さずにつぶやいていたら、いつの間にか僕は世界で一番冷たい人間になったのだという気がしてきた。お父さんお母さんに申し訳がないけれど、こうなってしまったのはもう仕方のないことで、きっと誰のせいでもない。
 
 
 
 ウーウーウーウーサイレンが鳴っている。さっきよりだいぶ近い。月はまだでかい。でかいサミットの看板よりでかくて、ちょっとだけ高い。月はこれより上に上がるのだろうか。下に下がるのだろうか。僕は世界で一番冷たい人間だから、月が上がろうが下がろうがどっちでもいいと思ってやることにした。