KATOU ICHIKOU

■ダイアリー/エッセイ/小説などのオリジナルコンテンツを掲載

今朝通勤途中の歩道橋ですれ違った女の子はやっぱり順子だということ

 僕の通うオフィスビルの裏口あたりの半地下にある喫煙室は四畳間くらいしかなくて、この狭い部屋に一階から九階までの大小様々な会社の喫煙者が集まる。最近は喫煙者がだいぶ少なくなったけど、それでもお昼休みの最後の十分くらいの時間には十人くらいが肩を寄せ合って、もくもくと煙を上げる。

 僕の向かい側で、壁にすっかり体をゆだねて、寄りかかるというよりも壁に寝っ転がっているといったような格好で、マスクを顎までずらしてタバコを吸っている三十代半ばくらいの彼は、今朝通勤途中の歩道橋ですれ違った女の子はやっぱり順子だという結論に至った。もう八年も会っていない。彼女が大学四年の時に付き合い始めて、新卒で美容室の受付として勤め始めてから別れた。今の彼女は三十歳になっている。正面からはっきり顔を見たわけじゃない。横を通り過ぎる時にちらっと斜めから見えただけだった。それでも彼は、今朝の女の子は絶対に順子だと確信を持った。くっきりと濃い目元の化粧も、機嫌の悪い赤ちゃんみたいなしかめっ面も、カラスみたいにつやつやしている真っ黒なショートカールも、生の太もも丸出しのミニスカートも、そんな女の子の一つ一つのパーツが、午前の業務時間を経過した今では、彼の中の完璧な順子へと変わっていた。彼は順子の若々しい顔に満足している。そうだ。順子は確かにこんな顔だった。順子の写真は妻との結婚が決まった時に、過去数人の彼女たちの写真と共に捨てた。洋服ダンスの三段目の引き出しの、パンツの隣に突っ込んである四代前の携帯電話のSDカード以外は。タバコの灰が喫煙室のタイルカーペットに落ちてから慌てて灰皿にタバコを押し付けながら、彼は彼女の肌の質感を思い出そうとしている。ふにゃふにゃしていたような気がする。頭ではふにゃふにゃだと思い出せるのに、手のひらも指先も、その感触を思い出すことができない。ふにゃふにゃとはどんな感触だったろうか。思い出せない。再びそれに接するまで思い出すことができないのだろうか。もしそうであるならば、また彼女に触りたいと思いながら、彼は僕の横をすり抜けて喫煙所を出て行った。彼はエレベーターを待ちながら、今度は順子の匂いを思い出そうとしていた。エレベーターに乗り込んで九階の四角いボタンを押す。順子は彼が知る数人の他の女性よりも女の匂いが濃厚だった。お風呂上りの女の匂いじゃなく、お風呂に入る前の女の匂い。甘くて、動物的な女の匂い。もちろん匂いも感触と同じで、再びそれに接するまでは思い出すことができない類のものだとわかっているけれど、彼は思い出そうとすることをやめない。彼の記憶の中の順子の感触と匂いは、思い出すことができないとしてもそれは彼だけのものだった。純粋に彼だけのものなんて今も昔も他には何もないような気がしたし、他に思い出す価値のあるものも何も持っていなかった。自分は八十歳とかになっても、きっと死ぬまで順子のことを何度も繰り返し思い出し続けるんだろうなと半ば確認めいた感じも彼は持っていて、それって僕だって結局のところは同じだよと、僕は僕の通うオフィスビルの裏口あたりの半地下にある喫煙室で二本目のタバコに火をつけた。