KATOUICHIKOU

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クウキトメトロ 6

 外出先を書き込むホワイトボードに、適当に、その時思い浮かんだのが得意先の時計屋だったので、その店舗名を、市ヶ谷とか、書いて、帰社時間の欄には直帰を意味するバッテンを書いた。マジックのインクが切れかけていて、かすれた文字が、目立たなくて、ちょうど良かった。僕が出先から直帰することは稀で、ほとんどの場合は何時になってもオフィスに戻って仕事をしなければならなかったから、このバッテンを怪しむ人がいるかもしれないと思ったけど、結局のところは誰も、何も思うことはなく、ほとんどの人がそれを見ることすらなかった。六時過ぎに業務部の佐藤さんだけが、僕宛にかかってきた電話に応対するために、ホワイトボードのバッテンを見た。佐藤さんは肩くらいまでの茶色の髪の毛を指で梳きながら電話に答えた。佐藤さんはそれが癖で、人と話す時も、会議で資料を読む時も、髪の毛を指で梳いた。その癖のために、この人はわがままなのではないかという印象を、本人の本質とは関係なく、多くの人が持った。この時は電話での応対だったから、その癖を見ていたのは電話の相手ではなく、向かいの席の相田さんだった。

 佐藤さんは、申し訳ございませんが本日は出先から直帰させていただく予定となっております。お急ぎの場合は携帯までのご連絡をお願い致しますと答え、承知致しました、どうもありがとうございます、どうぞ宜しくお願い致します、失礼致しますと、やり取りをして電話を切った。僕に電話をかけてきたのは、僕の顧客の一つの、タクシー広告の代理店の担当者だった。その男は僕の携帯番号を知らないということに、電話を切った少し後になってから気がついて、仕方なく、屋外広告許可申請の手数料に関するあれこれを、長いメールに打ち込んで送信した。

 ジャケットの左のポケットから、チョロリンという音が鳴った。私物のアイフォンではなく、会社から支給されているスマートフォンのメールの通知音だった。僕は左手にカバンを持って、右手はつり革につかまっている。地下鉄は動いてないのだから、右手のつり革は離してもいいのかもしれないけど、車両が傾いているような気がして、本当はそんなことはないのかもしれないけど、一応のところは、離すことができないということになっていて、つまり僕は今ここでメールを見ることができないということになっている。メールの最後の方には、急ぎ連絡くださいと書いてあるけど、僕はそれを読んでないから、連絡することはない。一瞬鳴っただけの通知音のことなんかすぐに忘れてしまって、僕がこのメールを開くのはずっと先の、明日の朝のことだけど、それは仕方のないことだと思う。

 つり革に、四本の指と指の付け根のところで、軽く握りしめるようにつかまっていたのを、人差し指と中指の二本だけを引っ掛ける程度に変えてみる。血の巡り方が変わったりとか、滞っていた何かが流れ出すような、そういうことを期待してそうしてみる。地下鉄のシートには、シートの下から上の荷物棚にかけて緩いカーブを描いたステンレスのポールが伸びていて、つり革につかまっているよりは、そのポールにつかまっていた方が楽なような気がするけど、僕の立っている場所から手を伸ばすには、少し遠い。誰もがそのポールに手を伸ばす時には、意識することなしに、ポールの、そのカーブの頂点をつかむのではないかと思う。